全盲のイラストレーター ◆エム ナマエ◆ の超個人的十七文字ブログです
ボクは中途失明した画家。週に三度の人工透析で生かされています。なのに、今でも 画家で作家。ボクは思います。人生、何があっても大丈夫。
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いつも日記をつけてます。失明したら頭脳がノート。
だから、記憶力のトレーニングのためにも、前日の出来事を振り返り、コツコツ日記をつけてます。



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2016年3月21日~27日
☆人工透析を導入したとき、東大のドクターはボクの余命を5年と宣告したけれど、ボクはそれから30年も生きています。お医者は神様ではありませんので、もしも余命を宣告されたら、どうかご自分の生きようとするエネルギーを、もっと信頼してあげてください。さて、この日誌は透析患者が病人ではなく、機械に腎臓の代わりをしてもらっているだけで、普段は一般の人と何ら変わらなく暮らしていることを知っていただくためのものでもあります。また、この日誌には本当のことも書かれていますが、ごくまれには嘘や冗談も書かれています。ただし、嘘は嘘らしく書かれてありますので、その判断のできないお子様たちは、どうか常識のある大人と一緒にご覧ください。また、難易度に関係なく、熟語や固有名詞などの漢字に振り仮名をしていることもありますが、これは視覚障碍者のための音声ガイドをサポートするためのもので、決して皆様がこの漢字を読めないと思っているわけではございませんので、その点はなにとぞご容赦ください。

0321・月・※振り替え休日・桜の開花予想日・
 東京、本日の日の出は5時43分、日の入りは17時54分。どんどん昼間が育っていく。早く大きくなあれ。大きくなってアフリカになって、サバンナでアフリカゾウとたわむれろ。そして本日の東京に開花宣言あり。靖国神社の標準木(ひょうじゅんぼく)に6輪、桜の開花が確認されたのだ。いつもだったら東京が桜開花レースの先頭を切るところだが、今年は福岡と名古屋に追い抜かれたとか。関東、ここ最近の寒さが影響したのだろう。例年よりも4日早く、昨年より3日早いとのこと。馬券ならぬ、桜券を買わなくてよかった。
 さて今頃、チェリーブロッサムフリークの面々はさぞかしお尻をもぞもぞさせていることだろう。桜を口実に酒を飲むのがどうしてそんなに面白いのか、毎年のように理解に苦しむところだが、好きな人は好きなのだ。人は好きでないことはしないのだ。そして好きなことのためならば、喜んで警察のお世話にだってなるのだ。教育関係者も警察関係者も不順異性交遊をしたり、スカートの内側をスマフォで撮影したりして警察のお世話になるのだ。好きだからとしか思えない。
 さて、ここに一枚の古ぼけた白黒写真がある。ここ、というのは脳味噌のことであるが、これは子どものときの花見の写真で、ひとり白けてこちらを向いて、叔父貴(おじき)のトレンチコートに首まですっぽり包まれて、祖母の作った特製稲荷寿司を手にして、寒さに震えながらカメラを睨みつけているボクが写っている。これがボクの花見トラウマの、動かぬ証拠写真であるのだが、今はこの一枚、まるで所在がわからない。30年前、ボクが人工透析導入の入院中、複数の人間がボクの住居と仕事環境に勝手な工作を加えたためである。ボクの周囲にはイラストレーターのアトリエ整備の精緻さを理解する人間はひとりも存在しなかった。そしてボクの人権を尊重する人間もひとりも存在しなかったのである。失明した画家に未来はない。誰からも、そう考えられていたのであるが、ボクだけは大丈夫と思っていた。だから今も大丈夫。書籍が行方不明になろうと、写真を紛失されようと、すべてはボクの中にしまってあるのだ。この白黒写真の風景も、祖母が作ってくれた稲荷寿司の中身の、御飯粒と同じ大きさに刻まれた人参や蓮根や干瓢や椎茸の美しさも、すべて総天然色で蘇ってくるのである。
 やがて失明したボクを温かな人たちが花見に誘ってくれるようになっていく。そしてボクは相変わらず、花見の寒さに震えていたのである。ただ、コボちゃんとアリーナとで歩いた桜満開の靖国神社だけは忘れられない。花見客の盲導犬に対する応援の気持ちと、花見というイベントを楽しむ周囲の人々の心とが見えないボクの手に取るように伝わってきたからである。

▲ 満開や 犬も歩けば 首が凝る

0322・火・
 さっきからずっと、小津安二郎の映画『東京物語』について熱く語っている。笠智衆が大根だとか原節子が芋だとか、荒唐無稽で破顔一笑、吹けば飛ぶような持論を展開している。要するに書いたばかりのブログ原稿と同じ話をしているのだ。場所は駅前喫茶店エクセシールカフェ。お相手は月刊ラジオ深夜便のS記者。ボクの存じ上げている数少ないインテリのおひとりである。インテリアではない。もちろんシャンデリアでもない。なのに知性の輝きはシャンデリア以上で、どのような話題を向けても、その光を何杯にも増幅し、跳ね返してくれる。驚くほど教養の容量が大きいのだ。だからボクは彼女を知性のバイオルミナンスと呼んでいる。発光ダイオードも真っ青なのである。というわけで、ボクは毎月のこの原画渡しの儀式が楽しくてたまらないのだ。
 200万人リスナーを誇るNHKのラジオ深夜便。もちろん全国放送である。そしてラジオ深夜便が誇る、かどうかは知らないけれど、そのマスコットキャラクターのゆめぞうくんはボクの手による。まだ使われているとしたらの話だが。というのは最近、ボクは月刊ラジオ深夜便のゆめぞうくんイラストレーションを卒業し、「しじまのうた」というコーナーを担当しているからだ。
 「しじまのうた」では中原中也、伊藤整、立原道造、宮沢賢治、三好達治、草野心平(くさのしんぺい)、西条八十(さいじょうやそ)、北杜夫(きたもりお)、恩地孝四郎、堀口大學、千家元麿、稲垣足穂、室生犀星などという、ボクのようなぺちゃんこのゾウリ虫みたいな全盲イラストレーターなんか、踏みつけてもいただけないような錚々たる文学者の作品をイラストレートする、という重大な使命を与えられている。それも好きなように料理してよし、という許可までいただいているのだから恐縮至極である。中原中也を刺身にしたり、伊藤整をスパイスたっぷりの唐揚げに仕上げたり、宮沢賢治を一晩煮込んで寝かせてみたり、稲垣足穂を釜飯にしたり、室生犀星をタルタルステーキにしても、編集長からも誰からも文句をいわれない。とはいえ、佐藤春夫の「秋刀魚の唄」を、夕焼け空を泳ぐ秋刀魚の魚群を追跡する空中漁船という図解にしたときは、全国の文学中高年から抗議文が殺到することを覚悟していた。
 今月は國峰照子さんのユーモラスかもしれないけれど、ちょっと不思議でかなり難しいポエムが課題。タイトルは「ヒトヨダケ」。虚無僧が出てきたり粘菌が出てきたりで、このキノコ、どうやって料理してやろうかと頭を抱える。一夜だけとはいわないで、百夜まで通ってよとは小野の小町と深草少将の恋愛譚がベースになっているといわれてもなあ。
 ううん、この詩人の先生、まだ現役でご活躍。こんなケースは初めてで、全盲イラストレーターの包丁さばきをどうご覧になるか、想像しただけで冷や汗ものです。
 ところで、このブログを読まれたら、ぜひとも近所の書店で月刊ラジオ深夜便を立ち読みしてください。立ち読みだけでなく、買って家に持ち帰って、隅から隅まで読んでください。これね、毎月サピエ図書館でボランティアの皆様が音訳してくださってて、エム ナマエのイラストレーションをいかに解説してくださるかが楽しみなの。もしかしたら下手糞な絵だなと音訳者の皆様から思われていたかもしれないので、これは全盲イラストレーターの作品だとわかるように、編集部にエム ナマエの経歴も誌面に加えてもらったら、それからは解説も好意的になったみたいとはボクの自意識過剰でしょうか。おそらくそうでしょう。

▲ 霞かも タバコたなびく 喫茶店

0323・水・満月・
 最近、テロ対策がエロ対策に聞こえてしょうがないのはその昔、羽田空港の税関で見つかっては大変とドキドキしたのがマシンガンや爆弾でなく、ジョンとヨーコの全裸写真が表紙のアルバム「ツーバージンズ」をバックパックに潜ませていたせいである。それにしてもブラッセルの自爆テロは許せない。テロはすべて許せないが、ボクのはかなくも美しい恋の記憶の聖地を血と悲鳴で凌辱した自爆テロには腹の底からの怒りを感じている。ブラッセルの旧市街はウィーンで知り合った恋人とふたりで歩いた思い出の場所。肩を寄せ合い、手を取り合って歩いた。建物が煤けているので驚いていたら、歴史があるってことは古いってことよと彼女はとても賢そうにいった。彼女は慶應義塾の現役だったのだ。ボクが小便小僧の小ささに失望していたら、彼女は小便象ではないのだから小さくても仕方がないと慰めてくれた。ボクは小便象ならアフリカゾウでもアジアゾウでも気にしないと笑った。そしてブラッセルの空港の出発ロビーで熱い口づけを交わし、日本へ戻る彼女を見送ったのである。その同じ空港で悲劇が展開され、その同じ床が血塗られてしまったのだ。
 そもそも自爆は日本のお家芸であった。自らが爆弾となり、敵を壊滅する人間魚雷「回天」も人間ロケット弾「桜花」も爆弾に人間がまたがっただけの形であり、人命を引き換えにしての誘導爆弾だった。神風特攻機にさらされてトラウマになったアメリカの海軍兵士はいくらでもいたが、今はキリスト教文明がテロに脅えている。神道国の人間爆弾をイスラム教徒が踏襲したのは、この手口が命さえ惜しまなければ金と時間をかけずに相手に確実にダメージを与えられるという利点からに違いない。そういえば、日本軍もイスラミックステートも自らの戦を「聖戦」と位置づけていた。けれども聖なる戦いで神々が闘ったことはこれまでただの一度もない。ジーザスとムハンマドは喧嘩したこともなければ、睨めっこさえしたことがない。すべては人間同士の衝突であり、エゴは人類の専売特許なのだ。そして21世紀の宗教戦争は文明の対立ではなく、非対称世界の産物なのである。
 初めてのロンドンで、大英博物館を訪れたときのことである。レストランは満員で、みんな相席をしている。大きな丸テーブルにいくつか席があったので、その向かいに座っていた白人の老婦人に形式的な挨拶として相席の許可を求めながら座ろうとした。すると、この一見して裕福でないことが明らかな、年老いた白い猿みたいなご婦人がボクに対して明らかな侮蔑の視線を投げかけ、口をへの字に曲げたかと思うと、
「No!」
という言葉を口にされたのである。これまで白人のそうした仕草を映画では目にしたことはあった。けれども、現実に有色人種であるという理由だけで軽蔑され、拒絶された経験などすることはなかった。このババア、殺してやろうかと本気で思ったのは本能的な反応であったと思う。腸(はらわた)が煮えくり返るというのはああいうことなのだ。もう少しで歩くホルモン料理になるところだった。もしもこんな扱いを毎日受けていたら、ボクのようなゴキブリも殺せず、台所のナマゴミを黙って提供してやるような心優しい、もしくは血に飢えた秋の蚊のご婦人たちに、自らの血液を飲み放題にさせる慈悲深い人間も、白人を皆殺しにしたくなるかもしれない。今だって、見えないという事情だけで人を見下すような人種に出会うとき、そういう気持ちが少しは想像できるのだ。日食が始まって最初の3分間で欠けた部分くらいは想像できるのだ。
 ところでアベちゃんはマスコミに政治的中立を迫るより、その政治的能力を全開にして国の中立を守った方がいいと思う。ずっと昔から、日本はイスラムとキリストの争いには中立なのだ。アメリカが貧乏になったから、アメリカから望まれたからといって、自衛隊を出すべきではない。十字軍の片棒をかつぐべきではない。外国人観光客が倍増し、オリンピックを開こうとしているこのタイミングで、わざわざこの国をイスラミックステートのターゲットにする口実を与えるべきではないと思うのである。
 と、そんなことをつらつら考えながら京王線で新宿駅の雑踏に踏み込んだ。テロの心配事もなく、せいぜいホームから転落しないよう注意するだけで山手線に乗り換える。テロの不安もなく、ただ地下鉄の上りと下りを間違えないよう気を配りながら恵比寿で日比谷線に乗り換える。恵比寿。ああ、この街でボクは失明を迎えたのだ。ああ、広尾。コボちゃんはこの街で看護師の資格を得たのだ。広尾駅の地下道を歩きながら、こんな話題を語り合えるのも、日本にテロの不安がないからだ。そしてこれから広尾の「おくつクリニック」で手根管症候群の世界的権威、おくつドクターから左手の完全回復を保証されるのも、日本がテロの対象国ではないからだ。めでたし、めでたし。

▲ 日が延びて 雀ら枝で はしゃぐ頃

0324・木・
 白鵬が稀勢の里(きせのさと)と豪栄道(ごうえいどう)を次々に肘打ちで破った。いいのかな。肘打ちはキックボクシングの必殺技で、肘鉄は女の武器。横綱のやることではない。どんなことをしたって優勝したい。その気持ちはわからないではないけれど、それで重ねた優勝で最高記録を作って、それが歴史に塗り込められて、記録だけが独り歩きをして、じゃ、誰も勝負のひとつひとつを記憶してないかというと、それはわからない。ひとつひとつの闘いを、ひとつひとつのエピソードを個人の脳味噌と、電子の脳味噌が記録していく。人間と電子頭脳がチェスや将棋や囲碁で腕前を競い合っている今という時代、脳細胞と電子チップスのどちらが高性能なのか結論はまだ出ていないが、細胞の記憶とデジタルな記憶との、もしもそのどちらもが劣化して記憶と記録が薄れてしまおうとも、人々の尊敬や憧れは物語となり、逸話となり、語り継いでいく人が現れる。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。左甚五郎、大岡越前、雷電為右衛門。釈尊、キリスト、ムハンマド。大いなる人々の姿は講談となり落語となり、小説として描かれていく。経典や聖書として、またコーランとして千年の歴史を超えていく。大衆の心を動かしていく。どれだけ出来事が過去へ飛び去っても、数字という記録より、大衆を感動させる物語を後世に残せる人が尊敬されていくのである。そう。この国では相撲とスポーツは同列では語られないのだ。もしも相撲をスポーツとしたいなら、プロボクシングや柔道みたいに体重別にすべきである。

▲ 鼻水は 花見花冷え 花粉症

◇ バーチャル東海道五十三次コース  箱根を通過しました。
次は三島。あと27,825歩です。現在の歩数、196,175歩。
3周目挑戦中!

0325・金・
 放送開始から30年という長生きの番組、TBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」がこのの春に終了する。となると「お色気大賞」は聞き逃せない。TBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」はボクが失明をして人工透析を導入したのと同じ1986年の春にはじまっている。それから30年、人工透析導入当時、医師から余命は5年と宣告されていたこの自分が、まさかそれから30年も生きられるとは予測もしていなかった。そしてこの「ゆうゆうワイド」。透析病院に通う朝、イヤフォンで聴きながら笑わせてもらってたこの番組が、まさか30年も続くとは思ってもいなかった。そしてまた、この失明した画家が全盲イラストレーターとして復活して、招かれた首相官邸で大沢悠里さんと漫才の内海桂子(うつみけいこ)師匠と偶然にも言葉を交わし、番組にお招きいただけることになるなんて、想像もしていなかったのである。この30年目の春に番組が終了すると知り、1991年のとある朝、オープニングから終了まで番組に出していただき、サウンドステッカーで内海桂子師匠とデュエットさせてもらったことや、その録音が全然デュエットになってなかったことも、その原因が内海桂子師匠が邦楽は巧みでも、西洋音楽はまるで音痴であったためだったことや、それでもその後、このヘンチクリンなサウンドステッカーを悠里さんに繰り返し番組でかけていただいたことなど、走馬灯のように浮かび上がってくる。当然、ボクも「お色気大賞」のヘビーリスナー。4月から新しい形でこの「お色気大賞」が生き残ると知り、胸を撫で下ろしている。
「マイクロソフトが人工知能とネットピープルをつなげようとしたらしいぜ」
 いきなり頭の上から話かけられる。いつもの浮遊霊だ。また世間をうろついて何か仕込んできたらしい。そもそも浮遊霊というのがフザけてる。お化けならお化け、妖怪なら妖怪、モンスターならモンスターらしくすればよいものを、一人前の幽霊にもなれず、しがない浮遊霊というのはなまじ自由なだけに地縛霊より始末が悪い。そもそもこいつ、何で出てくるんだ。この俺に何の用事があるのだ。だいたいこいつ、どこのどいつなんだ。ドイツ、フランス、オランダ、なんて冷蔵庫の引き出しで溶けてしまって、今にも化けて出てきそうな野菜みたいに腐ったダジャレでジャレてる場合じゃない。
「どこの話だよ」
「アメリカに決まってるじゃん。マイクロソフトがね、人工知能にネットピープルと会話させて、教育しようという魂胆さ」
「囲碁の相手をさせるんじゃないのか」
「人間はもう、囲碁の勝負じゃ人工知能の敵じゃない。でも、遊んでやらないとひねくれるから三度に一度は敗けてやるようにプログラミングされてるらしいよ」
「それで白鵬もたまに敗けてやるわけか」
「人工知能は白鵬みたいに他の力士を見下したりはしないさ」
「そんなことはないだろ。ほら、スタンリーキューブリックの2001年宇宙の旅のHALも人類を見下していたぜ」
「HALってさ、IBMのパロディーなんだよね。アルファベットを一文字ずつずらすとIBMがHALになる」
「でも、あの頃はコンピューターで、今は人工知能。考えてもみろよ、半世紀も前の映画だぜ。一文字どころか一億文字はずれてる」
「機械も頭がよくなった」
「俺は頭が悪くなった」
「機械も人間も進化するはずなのにね」
「人間は進化するよりも老化する」
「死んでるあたいは老化しない」
「お前に生きてる人間の苦しみはわからんよ」
「生老病死ってか。わはは」
「笑うな。それより話はどうなった」
「人工知能がさ、人間との会話を始めた途端、ヒトラーを讃え、人種差別を肯定するようになったんだとさ」
「そりゃなるだろな。だいたいさ、ヒトラーを生み出したのは大衆なんだぜ。アメリカの
ネットピープルだってトランプという化け物を生み出そうとしている」
「トランプで遊んでりゃいいのに」
「インチキポーカーでポーカポカ殴られて」
「ポーカいってんじゃない!」
「つまりさ、大衆の願望と不満が政治家という存在に実体化する。そういうことだろ」
「馬鹿が教えれば馬鹿に育つってこと?」
「人間の親子関係と同じだな」
「アメリカの知性がその程度なら、日本でやったらどうなるだろ。まさか安倍晋三にはならないよね」
「アメリカでも日本でも、声のでかいやつがのさばる。ここは黙ってちゃいけないな」
「沈黙は金じゃないんだね」
そうだよ。ニッポン死ねの一言が世の中を動かすんだから」
「死ねといわれても、あたいには通用しないけどね」

▲ 夜桜は 靴下二枚 ラジオいう

0326・土・
 ときどき午後1時からのTBSラジオ「ラジオなんですけど」で久米宏さんの独白エッセイ12分間」を拝聴している。今日は事件の発生系列を覚えているか、というテーマだった。例として、1986年のチェルノブイリの原発事故とスペースシャトル爆発とフィリピン革命を挙げておられたが、問われてすぐに順番を答えられる人はどれだけおられるだろう。
 さて、ここからが我田引水、牽強付会、言語道断、横断歩道は歩道橋より渡り易い。つまり、ボクはいえる、という話である。それはボクが失明した年だから。スペースシャトルが爆発したのはお正月。テレビから目出度い雰囲気が消えつつある深夜、元クラスメーツの山本コウタローが出演していて、彼の活躍と自分の失明が光と闇の明暗で、無理矢理に対比させられて、フリマで100円を支払い、ゲットしたセーターをほぐした毛糸と、バブルで稼いで購入したオーディオセットとビディオデッキの裏の配線がこんがらがったよりも複雑な心境に至ったとき、それは起こった。チャレンジャーの打ち上げ中継が開始された直後、機体は煙に包まれ、スタジオもテレビの前も煙に巻かれ、やがて事故が明らかにされたのである。バレンタインの怪獣チョコレートがボクに届き、ステゴザウルスとかトリケラトプスとかティラノザウルスとかを指先で確認しながら食べていた頃、フィリピン革命のニュースが飛びこんできた。やがて大雪が降り、ボクは腎不全による心不全で緊急入院し、人工透析を導入して革命は落ち着き、そのベッドで山本コウタローがマニラでコンサートを開いたというニュースを知り、ボクはますます落ち込む。そしてこの落ち込みが絶望に点火して希望というスペースシャトルを逆噴射させ、未来において、この山本コウタローとラジオ出演させるのだが、それはまたいつかの話。やがて春となり、桜が満開となり、ボクは退院して人工透析暮らしとなるのだが、それを記念する打ち上げ花火がチェルノブイリの原発事故であったのだ。
 あれから30年の今年の春、チェルノブイリ原発事故はどれだけ取り上げられるのだろうか。東電福島第一原発事故とどれだけ対比させられるのだろうか。廃炉計画で30年というのはどんな単位なのだろうか。避難指示区域の未来はどうなるのだろうか。避難指示解除ありき、原発再稼働ありきの国策で福島と日本という島の未来は本当に開かれるのだろうか。事故発生当時からボクは思っていた。国は東電福島第一原発周辺を事故原発記念国立公園として買い上げればよいのにと。そうすれば避難民は安心してあきらめ、土地財産や権利と引換の補償金で未来を設計できるのだ。ケチるな、ニッポン。
 北海道新幹線が開通した。函館から東京まで4時間であるという。驚きを通過し、秋田あきれた、青森を飛ばして、それって青函連絡船の所要時間じゃありませんか。上野発の夜行列車、降りて転ぶこともできないじゃありませんか。高校時代の修学旅行は北海道一周の旅。その最大の想いでは青函連絡船の銅鑼の響きと別れのテープ。友と眺めた青森のちらちら揺れてる灯。やがて迎える北海道の白い朝。人生で与えられた時間を1秒でも節約したい気持ちはわかるけど、どれだけ速く移動しても老化の速度は変えられない。整備新幹線もよいけれど、せめてJR、列車を整理しないで、乗客に選択の幅を与えてくれたまえ。

▲ 新幹線 桜列島 一直線

0327・日・
 いつもの日曜日のNHKラジオだったらお昼からのお楽しみ、NHK「素人喉自慢」があるし、午後の伝統番組「上方演芸会」がある。けれども今は春の高校野球真っ最中。これを阻止するのは国会議員居眠り監視プログラム「国会中継」だけであるが、そんなときだって高校野球はFMで流される。で、それも当然。全国の野球少年たちが汗と涙と泥にまみれて勝ち取った各県高校野球選手権を全力で行使する、その闘いの場であるからだ。おまけに今日は日曜日。政治家と公務員が働くわけがない。国会なんか蹴飛ばして、正々堂々と選挙活動をしておられることだろう。というわけで、週末こそ、高校野球全開なのである。
 ところでテレビとラジオとでは高校野球の楽しみ方が違う。まずテレビ。ここではアナウンサーの我慢大会が展開される。いかにしゃべらないか。バットの快音がすれば、
「打った!」
の一言だけ。もしも白球がグランドを転々とすれば、
「ヒット!」
の声が届き、もしも球がグローブに収まれば、
「アウト!」
と聞こえてくる。大きな飛球だったら、
「大きい、大きい」
と期待を引き伸ばし、そのままスタンドに飛びこめば、
「ホームラン!」
と叫び、もしもそうでなく、微妙だったら黙ってる。かどうかは知らないけれど、それ以上しゃべったら、今度はアナウンサーがアウト。だってテレビは見てればわかるから。余計なアナウンスで雰囲気を破壊してはならないから。アナウンサーが黙れば黙るほど甲子園の熱気が伝わり、拍手歓声ブラスバンド、応援合戦の隅々までが楽しめる、というわけだ。
 ところがラジオの場合はアナウンサーの我慢ではなく、技量が試される。スポーツ中継は特殊能力。ことにラジオとなると、言葉だけが頼りである。アナウンスしてくれない限り、どこの学校が闘っているのか、どっちが勝ってるのか、点差はどれだけか、何回目か、表か裏か、言葉にしてくれない限りわからない。ことにラジオをつけてからしばらく、これが皆目わからないのである。ことに勝負が肉迫してるときなど、アナウンサーだって肉薄してる。それどころか、仕事を忘れ、ゲームを楽しんでいるかもしれないのだ。吾を忘れて学校名を連呼する。けれど県名は伝えない。点差を連呼する。けれど勝ってるチームは伝えない。球筋を丁寧に解説する。けれどもアウトの数を伝えない。ラジオをつけた瞬間からどれだけ経過すれば、ゲーム全体が把握できるか、ここがアナウンサーの語りの技能でなく、リスナーの立場に立てる想像力と気配り力が試される場面であるのだ。誰の知能指数がいちばん高いかって。そりゃ学者でも政治家でも教育委員会でもない。落語家と漫才師とアナウンサーに決まってる。だから頭と顔に自信のある女の子はアナウンサーに憧れるのだ。そして放送局の合格率は顕微鏡レベルで低くなり、プロ野球選手との結婚率は天文学的数字に跳ね上がるのである。
 それにしても、何だなぁ、白鵬、あの最後の取り組み。白鵬というのが白い鳳凰のことだからって、立ち合いで飛んで見せて、自分も鳥だなんてアピールしなくてもいいと思う。そりゃ、満員の館内から不満の声が上がって当然である。なんせ満員の観衆は招待客じゃない。自腹を切って札止めの続く中、入手困難なチケットを購入した人ばかり。それもケチ、いや、金銭感覚の鋭敏なことで知られる大阪ピープルである。みんな稀勢の里(きせのさと)との優勝決定戦を期待してた。おまけに千秋楽最後の取組は誰だって正々堂々たる勝負を期待してるはず。おかげでおかしな優勝インタビューだった。質問者も白鵬も言葉に詰まり、客席も微妙な雰囲気。優勝おめでとう、に何か一言付け加えたい相撲ファンの歓声とも怒号ともいえない叫び声が次々に上がっていた。横綱らしくない横綱の優勝で春場所の結果がつまらなかったからいうのではないが、いや、いいたいのだが、相撲中継のアナウンサーの声がうるさい。マイクにでかい声は必要ないのだ。それと、はっきりしゃべれ。早口が過ぎる。速い動きを速くしゃべれば動きが見えてくるわけじゃない。速い動きをスローモーションで見せるような、そんな相撲中継があってもいい。なんてさ、もしも稀勢の里と白鵬の優勝決定戦が実現してりゃ、こんなことはいわないのよ。

▲ 白鵬が 飛んで白けた 鳥になる




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